シルクロード紀行
プルジェワルスキーの墓前にて
 ※本文は2006年7月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。
 ニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェワルスキーは、ロシアの中央アジア探検家である。彼は生涯のうち、1回のウスリー地方(日本でいう沿海州)の探検と4回の中央アジア探検を行った。そして、5回目の探検に出発しようとした矢先、腸チフスを患い無念の生涯を終えた。49歳の若さであった。

キルギス位置図
(「地球の歩き方」ダイヤモンド社より)

イシク・クル周辺図
(「週刊シルクロード紀行12」朝日新聞社より)


 1839年、退役軍人の父の長男として生まれた彼は、小さい頃に父親を亡くし母親の手で育てられ、やがてサンクト・ペテルブルグの陸軍大学に入学した。しかし、元来戦争など好きでない彼は、軍事に関する勉強はほとんどせず、地理や動植物などの勉強ばかりしていた。とは言え、卒業論文のテーマは、「アムール地方の軍事的概観」であった。ところが、この論文がロシア地理学協会で認められた。それには、彼が生涯の師と仰ぐセミョーノフの力添えが大きかった。セミョーノフは1856年、西洋人として初めて天山山脈の探検を行い、その記録を『天山紀行』に著わした。当時の彼はロシア国において英雄的存在であった。それゆえ、「セミョーノフ・チャンシャンスキー(天山の父)」の名で呼ばれ、プルジェワルスキーをはじめ、多くの若者に大きな影響を与えていた。                      .

セミョーノフ著「天山紀行」
(樹下節訳 ベースボール・マガジン社)

プルジェワルスキー
(「N.M.Przhevalskiy.Issyk-Kul Memorial Complex」所収)
 1866年、プルジェワルスキーは参謀本部付という肩書きで東部シベリア・ウスリー地方調査の許可を得た。但し、資金は自前でということであった。セミョーノフの力添えがあったとは言え、一度の調査経験もない若造にロシア地理学協会は資金を出すことはしなかった。だが、彼にはこの調査が成功したら、次回の資金援助はしようという約束がなされていた。

 当時のウスリー地方は、1860年の北京条約によってロシアが獲得したばかりの領土である。プルジェワルスキーの報告によると、ウスリー地方に入植のため連れて来られたコサックの生活は、「富裕などと言うも愚か、ほとんどの人たちはその日のパンにも事欠いている」とか、「夫たちは自分の妻を売り、母は娘を商っている」などと記されるほど凄まじい現状であった。このウスリー地方の探検記が認められ、プルジェワルスキーは、長い間の夢であった中央アジアの探検の道を開くこととなった。そして、それは実際四次にわたって実施された。

 第一次(1870〜73年)は「モンゴル旅行」、第二次(1876〜77年)は「ロプノール紀行」、第三次(1879〜80年)は「第一次チベット探検」、第四次(1883〜85年)は「第二次チベット探検」と一般的に呼ばれている。ちなみに、スウェーデンのヘディンとの間でたたかわされた有名なロプノール論争は、第二次探検がもとになったものである。

“中央アジアの真珠” と呼ばれる湖イシク・クル

静かなカラコルの町の通り
 プルジェワルスキーは、1888年、第五次探検へと出発した。天山山脈の支脈テルスケイ・アラ・トー山脈の北麓の湖イシク・クルの南東岸の町カラコル(現在のキルギス共和国の一都市)を出発点として、ここから天山山脈を越え、タクラマカン沙漠を縦断してチベットに入るのが目的であった。
 ところが、このときプルジェワルスキーは、自らのミスから取り返しのつかないことをしてしまった。彼は生来狩猟が好きで、カラコルに入る前にイシク・クルの西岸近くでキジ猟を楽しんだ。しかし、この付近は1年前から腸チフスの流行している危険地帯であったが、彼は咽の渇きに堪えきれず、近くを流れる川の水を生のまま飲んでしまったのである。普段から隊員たちには、「水は沸騰させたものでないと絶対に飲んではならない」と強く言っていた当の本人が、やってはならない基本的な過ちを犯してしまったのである。

プルジェワルスキーメモリアルパークの入口

安らかに眠るプルジェワルスキー
(「N.M.Przhevalskiy.Issyk-Kul Memorial Complex」所収)
 プルジェワルスキーがカラコルに到着したのは10月10日の夕方のことで、症状が現れたのはその翌朝のことであった。隊員たちは軍医に診てもらうようすすめたが、頑固な彼は「心配ない」と言って耳をかさなかった。これが第二の過ちであった。そうこうするうちに症状はますます悪化し、最終的に彼はカラコルの野戦病院に入院することとなった。18日の夜半からは熱がますます上がり、さすがの彼も死を覚悟した。そして、隊員たちに言った。「私が死んだらイシク・クルが見える眺めのよいところに、探検服のまま埋めてほしい。墓標には『探検家プルジェワルスキー』とだけ記してくれればよい。」20日の早朝、彼は隊員たちに見守られながら息を引き取った。
 プルジェワルスキーの遺体は、彼の意思にそって、イシク・クルを眺める小高い丘の上に埋葬された。墓には木で作られた質素な十字架が立てられた。しかし、彼の偉業は、やはりそれだけでおさまることはなかった。翌年、ロシア皇帝の命によりカラコルはプルジェワルスクと改名(キルギス国の独立後、もとのカラコルに戻された)され、さらに6年後、彫刻家のシュレーデルによって墓のそばにりっぱな記念碑が建てられた。それは高さ約9メートル、21個の小さな花崗岩を組み合わせた大きな岩塊によって構成されていた。


プルジェワルスキー記念碑

最初のプルジェワルスキーの墓
(「N.M.Przhevalskiy.Issyk-Kul Memorial Complex」所収)

その岩の上には青銅製の大鷲が翼を広げ、嘴に平和と学問の象徴であるオリーブを加えて、足はプルジェワルスキーの探検の経路を表わす内陸アジアの地図を踏まえている。そして、そのすぐ下の岩に青銅製の十字架とプルジェワルスキーの肖像が嵌め込まれ、さらにその下に、「ニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェワルスキー、内陸アジアの自然の最初の探検者、1839年3月31日生、1888年10月20日」と銘記されている。その記念碑は、彼が目指した南に向かって建てられ、基壇から上に向かって10段の階段が設けられている。それは1年が1段、彼の10年の足跡を表している。

現在のプルジェワルスキーの墓
 この中央アジア探検の先駆けとなったプルジェワルスキーゆかりの地をいつかは訪れたいと思っていたが、その夢がようやく実現した。
 プルジェワルスキーの墓は、キルギス共和国のカラコルの町の北のはずれにあった。それは彼の遺言どおり、“中央アジアの真珠”とも称される湖イシク・クルの近くに眠っていた。墓のそばには彼の功績を讃える記念博物館が建てられ、一帯はメモリアルパークとして整備されていた。ただ、かつては墓のすぐ下まで湖水があったが、現在は200メートルほど後退している。彼が目指した南の方角を望むと、天山山脈を構成するテルスケイ・アラ・トー山脈の美しい山並みが眺められる。それはプルジェワルスキーの偉業を偲ぶにふさわしい風景であり、そこで束の間の静かなひとときをもつことができた。
 
現在湖水は200メートル後退している(遠く左後ろに見える)

プルジェワルスキーメモリアル博物館
 これまで、私はプルジェワルスキーの探検記録から多くのものを学んだ。しかし、その一方で、彼は探検家でありながらロシア軍人としてスパイ活動を行っていたことも知っている。彼の活動は、ロシアの領土拡大に伴う南下政策の時期と一致する。彼の調査報告に記されていない部外秘情報も多くあった。このたび現地でガイドをしてくれたキルギス人のヌルベック氏は、年は30そこそこだが、とても勉強熱心な若者であった。彼とバスのなかでプルジェワルスキーについて語り合ったとき、彼はプルジェワルスキーを探検家として尊敬しているが、もう一方のスパイとしての活動の方に興味があると言っていた。
たとえば、プルジェワルスキーの探検記には、「中央アジアの山岳部族(キルギス人のこと)はやさしくて親切である」と記している。しかし、ロシア皇帝への復命には、そのあと、「それゆえに、彼らを騙してユルタ(居住用テントのこと)のなかに押し込め、ユルタに火を放てば部族ごと全滅させることができる」と言ったとても恐ろしい内容が報告されているという。これらの機密文書は、現在モスクワやサンクト・ペテルブルグの図書館などに保管されているはずなので、ヌルベック氏は、それらを自分たち民族の歴史を知るうえでも是非調べてみたいと言っていた。

プルジェワルスキーが使った調査器具

プルジェワルスキーメモリアルパークから
イシク・クルを望む
 このことは、私が関心を持つ玄奘三蔵の『大唐西域記』にも同様なことが言える。玄奘はインド仏典の翻訳作業を国家のプロジェクト事業として行わせるかわりに、彼が中央アジアやインドなどで知り得た情報を、西域経営に乗り出そうとしていた唐の第二代皇帝である太宗にすべて提供した。そこには玄奘が各国で見聞した機密情報がたくさんあった。それらはもちろん宮廷内だけの部外秘情報であった。したがって、私たちの知る『大唐西域記』は、そのエキスの抜かれたものであると言うことになる。
 こうして見てくると、このたびの玄奘三蔵の足跡を辿る天山北路の旅も、プルジェワルスキーとの共通項が見出されたようでおもしろい。いずれにせよ、プルジェワルスキーは、私にいろいろなことを教えてくれる。そのことには素直に感謝しつつ、プルジェワルスキーの墓碑に合掌した。
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