講座 『シルクロードの謎』
【第1回 シルクロードの歴史】
シルクロードは、地図で見ていただくとわかると思いますが、東の方に北京があって、一番北のラインにモンゴルからコーカサスの方に向かうルート、これがステップルートと称するものです。緯度が45度〜50度前後を走っている草原の道と言われているものですけど、これともう一つ、その南の方に長安、今の西安からタリム盆地、天山山脈、崑崙山脈の間を通って、ずっと西へ延びて西アジア、ヨーロッパに通じるルートがありますが、これがいわゆるオアシスルートと称されています。それから、ずっと時代が下りまして、広州の方から大陸の港々を通って西の方へ向かう海の道というのがありますけど、この3つが今ではシルクロードと称されています。一番古いのは、シルクロードという呼び名もない中で、自然に民族が移動したり、人々が動きまわっていたりしていた時代のステップルートだったわけです。そして例えば交易とか、物が動き出したところで始まったのがオアシスルートの道ですから、それ以前の自然に民族とか、文化とかが流れていたのは、緯度50度前後にあったステップルートだったわけです。そして、それらが培われた中で、オアシスルートができ、1500年くらいたって海の道という海上交通が広がっていくわけですけど、こうした3つのルートがシルクロードといわれているものですので、これを一つづつ探っていきたいと思うわけです。

シルクロードの地図(出典:新詳世界史図説・浜島書店より)
では、このステップルートで何が古いのかということを辿っていくと、西アジア、いわゆるオリエント地域まで見てみないと、なかなかわかってこないわけです。そこで、オリエントを中心に話をしていきたいと思うのですが、なぜオリエントがその歴史に大きく関わってくるのかと言いますと、氷河期が1万2千年前くらいに終わりまして、一万年前後に気候が段々暖かくなってきますが、そうした中で人々の暮らしが始まったと言われています。約1万2千年以前の人類といって言いのでしょうが、人類は自然採取といって物を取ったり、獣を追っかけたり、植物が自然になっているのを取って食べたりと言った狩猟採集の時代がずっと長く続いてきたわけですが、1万年前くらいになると、そうした中から、人類は植物を育て、動物を狩猟するのではなく、それを家畜として育てるという技術を覚えるわけです。その植物というのが、1つにはムギなんですけど、ムギを育てることによって、今までは自分が食べたり、家族が食べたりするその日その日の食物を確保していたのが、それを育てるということによって、それが蓄えとなっていくわけです。
チベットで栽培されているチンコー麦(大麦の一種)
だから恐らくその月の分といって確保していたものが、その年、さらにその次の収穫までのものが確保できるようになる。そういった農耕を知ることになるわけです。それと羊とか山羊とかが、やはり家畜として乳とか、肉とか、毛皮とかを利用できるようになる。そういう技術を人間は知っていくわけです。今までは自然になっていたものを食べていたのが、それを栽培したら100倍くらいの収穫量になった。それは誇張もあると思われるので、話半分に聞いたとして50倍以上のものが蓄えられるようになったということが、オリエントの世界で行われるようになったわけです。
ところで、最初は一つにはコムギだったわけですが、しかし段々砂漠化していくものですから、土地がやがて塩分を含みだした。それでなかなかコムギが育ちにくくなっていく。その後オオムギに変わっていきますけれど、オオムギを収穫することによって食糧確保が大いに進んでいくわけです。そうすると自分と自分の家族が食べられる以上のものが蓄えられるようになり、そうなるとそれを他に供給できるようになる。他に供給できるようになるということは、他の人が農耕をやらなくても食べていけることができるということを生み出すことになり、だから後には、当然農耕をしない人が出てくるわけです。今まではそれぞれその人自身が食べるための食糧確保をしていたわけですが、その後、そういう農耕を行うことによって、農耕をしなくてもいい人が出てくる。
そうすると、そこにコミュニティー、つまりムラという組織の集落が出来てくるわけです。そういったムラが各個にできると、今度はムラどうしで、こちらで作ったものと、あちらで作ったものとを交換しあうという、そういったことが生じてくる。そうすると今度はそうした範囲でマチができて、段々と広がってくる。大きくなってくる。生産が一つ雪だるま的に回転すると、それ以上のものに大きくなっていく。ムラがマチになって、マチが都市になって、都市が国家になっていく。マチが都市になっていくと、そこではモノを作ったりすることが盛んになりますから、そんな中で人間の知恵が大いに育っていくわけです。そうした集団ができることによって、初めてそこに戦争とかいうものまでも、人間は生み出していった。そんなわけで、今、世界では紛争とか戦争とかありますけど、それらの一つの素になったものを生み出したのも、オリエントから出てきたと考えてもいいのではないでしょうか。このように我々が現在、知恵とか技術とか戦争とか、そうした一つひとつを辿っていくと、それらはオリエントの世界に見られるのではないかと思われるわけです。
さきほど、オリエントの世界でいろいろな技術が盛んになったと言いましたが、例えば土器とか金属器とかガラスとかは、すべて素になっているのはオリエントの世界から始まっているわけです。素を質せば農耕生活によって、農耕をしなくなってもすむ人たちが生み出され、そんな中で今まで物々交換で行われていたものが、モノとモノとを交換するということによって、今度は約束事が出来てくるわけです。約束事というのは契約です。契約を行うには文字が必要になってくる。文字を必要とするということで、先ずはトークンと呼ばれる何かの記号が使われる。例えばコムギが5袋といったら、泥で作ったおはじきみたいな丸いものにコムギを表す文字みたいな記号を刻み、それが5つあったら5個を意味するといったように、それを袋といってもオリエントは土の文化ですから、とにかく水で捏ねれば板状のものが出来るわけで、それに棒みたいなもので刻んだものを入れる。こうした契約という観念が出てきます。それは、今でも私たちはハンコとして使い、封印をしたりしていますが、これとこれを、おまえはAからBへ売ったとか、渡したとかいうのに、土の封筒に封をして印鑑を捺すハンコを作り出したのがオリエントなわけです。
それを今度は交換するのに、例えば毛皮と穀物を交換する。そこで量る観念であるハカリというものが生み出される。これをオリエントから出てきたわけです。
さらに、そういったいろいろなものを運ぶのは大変ですから、それと同じ価値のものを、例えば金とか銀とかと、穀物を交換できる、いわゆる貨幣もオリエントから生み出されたわけです。このように考えますと、今までの契約であるとか、技術であるとかはすべてオリエントから発している。そうした延長線上でシルクロードの物流、交易とかは出てきているわけです。だからシルクロードを理解する上には、それより古いオリエントの世界を知ることが早道ではないかと思うわけです。そこで、このシリーズの最初は、オリエントをやっていきたいと考えます。
テキストはどうしようかと思ったのですが、私の勤務している博物館で、1年前に東京の古代オリエント博物館が企画した「古代オリエントからのメッセージ」展を開催したのですが、その折の図録がありますので、それを使っていきたいと思います。古代オリエント博物館は、昭和53・4年頃オープンしたもので、日本ではオリエントをテーマにした初めての博物館として活動していますが、その元になったのは、ご存知の江上波夫先生です。先生は、戦後、1956年に日本で初めての海外学術調査である「東京大学イラク・イラン学術調査隊」を出されました。
それは、昭和30年代に初めて出した本格的な海外学術調査団でして、10年間に隔年でイラク・イランの調査をされましたが、そこで育った弟子の先生が東京教育大学や国士館大学などで活躍され、今その先生方が退官されるかされないかくらいでして、だから現在はそのまた弟子あたりが、オリエントの一線で働いているわけです。江上先生にとっては孫弟子にあたるわけで、その人たちが40代後半から50代の前半です。
1956年から本格的な調査をして、そこで10年間調査したものをもとに、江上先生が東大を退官されるのを機に、その後の先生が活躍する場が必要になったことと、オリエント調査の資料を公開することもありまして、池袋の刑務所跡地に文化ゾーン構想の中でサンシャイン60が建てられ、その中に古代オリエント博物館ができたわけです。
博物館活動の中で、1970年代に海外調査を始めたわけですが、今もシリアなどを中心に調査しており、そうした資料が蓄積されたところで、博物館の常設展だけでない所蔵資料を中心とした展覧会を地方にも持っていこうと企画したのが「古代オリエントからのメッセージー暮らしの考古学ー」特別展なのです。
江上先生の孫弟子にあたる堀さんとか、脇田さんとかオリエント博物館のスタッフが、図録の編集・執筆にあたられたわけです。今までにオリエントまた中国を含めたシルクロード関係のいろんな本が出ていますが、私も博物館で仕事をしているので実感としてわかるのですが、要するにモノを見せて、それを理解させるという本は、博物館を経験していないと書けないんじゃないかと思います。大学などの研究機関で長年こつこつとやってこられた先生たちの経験と違い、博物館の経験者は、先ずモノを見せる。モノを見せてそこから感動させるわけで、それには説明が必要なわけですが、モノについて知らせるには、モノの邪魔にならない程度で説明しなければならない。するとあまりクドクドと書くことができないわけです。何字で一つのモノの説明をするか、例えば100字前後ではないか、100字では説明しきれないから、だったら150字くらいにしようか。200字になると原稿用紙半分くらいになるので、そんなものを資料が5〜6点なら読んでくれるかもしれないが、それが50も100にもなると読んではもらえない。となると解説は100字前後が妥当なのではないかといったことが話しあわれるわけです。そこでは最大何を知らせなければならないか、それには何を切っていくかという発想なわけです。だからこの図録は、暮らしの考古学というタイトルで人類の発生から展開されています。これは今言ったような考え方から要領よくまとめられてありますので、これをテキストとしてやっていきたいと思います。
さきほどのオリエント博物館のことが出ましたので、海外調査がシルクロードにおいてどのように行われてきたか、それについて少し触れてみたいと思います。シルクロードといっても、中国が中心となるわけですが、日本からのものをたどることとします。
近代になって、明治20年代前半に日本で初めて中国の西域である新疆ウイグル地区を対象に調査らしきものを始めました。それが明治22年頃です。どうして始まったかというと、ロシアでシベリア鉄道の建設計画があったので、その対応策として新疆地区の方に鉄道を敷設しようという計画が出てきたのです。そうした対ロシア政策があって、西域の方で調査を行ったわけです。名前は当時大東亜研究所、今でいう内閣調査室みたいな組織がもっていたわけですが、それが日本で本格的にシルクロード方面に調査を出した初めなわけで、日本におけるシルクロード第一期調査と言われています。
第二期は、1921年、明治の末から大正にかけてです。、ヨーロッパの方からドイツのヘルマンとかスウェーデンのヘディンをはじめフランスやイギリスなどが中央アジアで調査を行うようになってきた。こうした人たちが明治30年代後半から調査を行い、ここでシルクロードが一般的に知られるようになったのです。そのとき、日本から出かけていったのが、大谷探検隊です。ヨーロッパの大きな波の中に日本が加わっていったのが、第二期ということになります。第三期は、戦後の昭和30年代初めで、さきほど言った東大のイラク・イランの調査が始まっていくわけです。この他に今は亡くなられた九大の岡崎敬先生やいろんな先生が、中国西域や中央アジア方面に調査に行かれるわけで、これが第三期、昭和30〜40年代のことです。
第四期が、いわゆる私たちがシルクロードのブームにのって出かけて行った、昭和50年代からシルクロードの調査です。
東大で初めて調査が行われたのをもとに、その後、京大でインド・パキスタンのガンダーラの仏跡調査が樋口隆康先生が行われました。今、シルクロード研究所が奈良にできていますが、先生はそこで活躍されておられます。こういった先生が中心となって築き上げた昭和30年代の実績と、先生の次の代の人たちが中心となる40年代後半からの、いわゆる第三期の勢いに乗って第四期は作り上げられたのではないかと思います。調査はいろいろなところで行われていますが、その一つに早稲田大学のエジプト調査があります。昭和45年頃から吉村作治さんを中心としたもので、皆さんよくご存知のことと思います。私たちの世代のオリエント調査の先駆け、第一号だと思います。
カマン・カレホユック遺跡(トルコ)
それから、イラクには国士館大学古代イラク文化研究所の藤井秀夫先生が1966年から出かけ、メソポタミア文明の解明に取り組んでおられます。先生もまもなく定年を迎えられますので、その後は松本建さんが引き継がれることと思います。シリアの調査は古代オリエント博物館の脇田重雄さんがやっておられ、調査した古代住居の復元などもされました。そのほかに筑波大学や京都の古代学協会など、いろんなところでシリアの調査は行われています。トルコ調査は、中近東文化センターの大村幸弘さんがカマン・カレホユックで行っていますが、彼も早大の出身です。私自身がこの人の本に影響されました。大村さんは、大学を卒業と同時にトルコのアンカラ大学に留学されて、1年どころか10年以上も勉強されたわけですが、アンカラ大学の先生について発掘調査をされた。外国人の調査は難しい中を長年の努力により発掘をされてきたわけです。

ヒッタイト帝国の都址
ボアズギョイの獅子門(トルコ)



ヒッタイト帝国の都址
ボアズギョイの宮殿跡(トルコ)

勉強会で話を聞いたのですが、兄さんは大村次郷さんで写真家です。シルクロードの写真が多いのですが、大村さんが盛岡から東京にいるお兄さんのところへ遊びに行ったとき、古本屋でツェーラムの『狭い谷 黒い山ーヒッタイト帝国の秘密ー』を見て、それが面白く、帰りの電車の中で読み耽ったそうです。その中で、「紀元前2000年前後のヒッタイトについては、まだ不明な部分が多い」と書いてある。ということは、「それは私の入っていく余地があるのではないか」ということが動機で始めたのだそうです。
海外調査の意識は、一線で活躍した一代前の人の成果が皆さんの知識だと思いますが、現在の調査は、昭和22年前後の団塊の世代の人たちが、今一線で活躍しているのです。そういったものの情報提供の場が、ここで行われれば良いように思います。
ところで、今イラクは調査ができません。1990年頃の湾岸戦争の影響で、イラク内への入国はできるが、発掘調査ができる段階にいたってはおりません。だから国士館大学の先生たちは、かなりフラストレーションがたまっているようです。
シリアは、筑波大学とか古代オリエント博物館だとかいろんなところが行っています。メソポタミア文明が世界四大文明の1つとしてありますが、チグリス・ユーフラテス河の文明を知るにあたっては、その上流域についても研究をしなければならないということが再認識されているので、シリアやトルコの東部が、今見直されているのです。だから河の上流にあたるシリアが無視できなくなっているわけです。それともう一つ、なぜシリアに調査が集中するのかと言えば、今まで海外調査をしていたところが紛争地域になってしまった。それで治安が安定しているのは、シリアやトルコしかなくなってしまったという状況もあるわけです。現実と思惑にギャップができてしまったというべきなのでしょう。
 それはともかく、広島はオリエント学の盛り上がらないところです。大学でも中国についてはあるのですが、中央アジアや西アジアについては講座がもてない状況にあります。啓蒙的な意味も含めて、これが盛んになればと願っています。昨年、広島大学を定年退官された吉川守というシュメール語の大先生がおられますが、そうした素晴らしい先生が広島におられるのですから、こうした輪が広がっていけばと思っております。
これから「シルクロードの謎」という講座をやっていきますが、シルクロードと日本文化について、その物質的なものと、精神的なものとの両方を見て行きたいと思います。かつて林良一という人が、「正倉院はシルクロードの終着駅」と言われましたが、舞楽の伝統や楽器などがある宮島の「厳島神社もシルクロードの終着駅の一つ」と、私は思っております。だからシルクロードを考えるにあたっては、厳島神社との関わりを常に考えてみたいと思っております。

宮島・厳島神社の舞楽・抜頭
厳島神社は、結構こだわりはあるけど、理解もあるところです。宮島自体は観光ずれしていますが、神社は結構ぶきっちょな面がありまして、神事は神事として、観光客に組みしない、そういうところがあります。年に何回か舞楽が奉納されますが、正月五日には拔頭が演じられます。これは一子相伝の舞で、年に1回だけ行われます。それは、夜明けの舞とか、日の出の舞とか言われます。京都映画が神社に委託されて神事を記録に撮っていまして、去年の正月、拔頭を見にきませんかと誘われたので行って見ました。日の出の舞ですから、6時半前にはやることになっていたのですが、高舞台に霜が降りているのでやりたくないと言いだし、夜がすっかり明けてから舞い始めました。
これなどは一般に迎合せず、観光客におもねるところがないわけで、神事はあんたたちのためにやっているんじゃないんだという頑なさのように思えるのです。だから変に観光に迎合せず、モノが継承されている様に思われるのです。舞楽は大陸からの要素が入ったもので、西域などで生まれ育まれたものが、中国に伝わって中国好みに1回変えられ、それが日本に入ってまた日本風にアレンジされていると思いますが、迎合せず、神事として残っているということは、シルクロードの文化を知る上で大切なことではないでしょうか。厳島神社は、奈良の正倉院とはまた違った意味があるように思われます。ゾロアスター教については松本清張も追っかけていましたが、厳島神社の鎮火祭とゾロアスター教とに関わりがあるのかないのか、いろいろと興味があります。
シルクロードの文化を考えるについては、日本人ですから日本との関わりが必要だと思います。日本とどうなのかを語らなければ、あまり意味がないように思われます。文化には三原則というものがあるのですが、その1つは普遍性です。世界のどんなところにいても人間が考え得るものは大体同じものだということです。飲み物の器や、食べ方とか大体同じことを考えるというのが普遍性です。2つ目は個別性です。西アジアであろうと、中国であろうと地域において特異性があるということです。盾の持ち方など、地域によっての個別性は無視できないわけです。最後に伝播性です。地域地域で生み出されたものは、意外な早さで伝わっていくものだということです。この3つを考えていくと、文化というものが見えてくるのではないかと思われます。歴史とか民族とか、そういったものを考える座標となるでしょう。それが比較文化ということです。
シルクロードにはいろいろなテーマがあります。東西交渉で金とか絹とか物流が盛んだったわけで、比較文化として東西交渉を見てみると、またシルクロードの新たな部分が見えてくるように思われます。(了)
シルクロードの謎バックナンバー・トップへ
シルクロード写真館  シルクロード紀行  文机からエッセイ
TOPへ戻る≫
ALL Rights reserved,Copyright(C) 2001,S.Matsuzaki  ご意見・ご感想はこちらまで