講座 『シルクロードの謎』
【第2回 古代オリエントの世界】
古代オリエント博物館の図録『古代オリエントからのメッセージ』を使って、しばらくやっていきたいと思います。
オリエントとは、ローマから見て東方の地、日の昇るところを意味するオリエンスというラテン語からきている言葉です。今で言う地中海の東岸です。エジプトがアジアでなくアフリカなのに、なぜオリエントとされているのは、そういう意味が含まれているからです。そして今では、アレキサンダー大王が遠征した範囲までも含んでいますし、インドや中国西域までもが含まれております。しかし一般的には、ローマから向かって東の方、イランから東地中海へかけての地域と考えればいいと思います。

オリエント地域図
(出典:新詳世界史図説・浜島書店より)
前回 中近東文化センターの大村さんのことについて話をしたとき、ツェーラムが、「まだまだ不明な部分が多い」という話をしましたが、オリエントについては、本当にわかっているようで、実はまだまだわかっていないことが多いのです。大袈裟に言えば年代を刻むのも千年単位です。それほど分かっていないということです。日本でもかつてはもっと大雑把だったわけですが、今はひどいと5年10年で論争しており、10年違うの違わないので大喧嘩をしております。しかし、オリエントでは千年単位ですので、おおらかに勉強できます。地域が広いということと、研究者がまだ少ないということが言えるかもしれません。
日本では1年中どこかで発掘調査していますが、1県で1年に2〜30件として、全国で1000件、その他市町村や大学、委託機関などを含めるとものすごい調査量です。それほど調査数が多いのに、やっとあらかた大まかな歴史観がわかった程度です。外国の人たちと話すなかで、外国の人が不思議がるのは、「そんなに発掘をしていて、まだ不明な部分が多いというのはどういうわけですか」ということです。邪馬台国が今なお、畿内か九州かわかっていない。それだけ奥が深いのだといえばそうなのでしょうけれど、外国人の学者にとっては、どうも摩訶不思議なようです。
それはともかく、オリエントについては、あまり多くは進んでいないわけです。トルコのヒッタイトの都の跡の発掘にしたって、ドイツ隊が今世紀の初めから調査を開始して、まだ20%くらいです。今、5代目の隊長がやってますが、それでも約20%しか進んでいない。だから50年、100年単位では話が進まないのです。要するに、交易が始まり文字ができて記録が残って年代が限定されるようになるのですが、それまでは大雑把なわけです。
45億年前に地球ができて、それから5億年して生命が誕生したのですが、その生命はただ海に浮いているだけでした。それがやがて動き出し、そして海から陸へ上がってきた。人類らしきものが出てきたのは、400〜450万年前だと言われています。アフリカが人類発祥の地と考えられ、1800年代の終わりから1900年にかけて調査が始められ、猿人とか、近猿とか言われるものが発見されて、現在は、リーキー博士らが調査を行っています。我々の祖先はアフリカだろうという信念でやっています。

上半身裸で調査する
ドイツのペテル・ネヴェ隊長(第4代)

ヒッタイト王国の都・ボアズカレ
 では、その人類の祖先がやがてアフリカから散っていくのですが、その出口となったのはオリエントなわけです。街道になったのはエジプトから西アジアです。研究者はその散った先を求めて、19世紀後半から20世紀の初めにかけて調査を行った。その一人がデュボアで、インドネシアのジャワ島へ出かけていって、ピテカントロプス、いわゆるジャワ原人を発見したのです。
 北京原人も、50万年前、そうやって出て行ったのです。北京原人の発見には、スウェーデンのJ・G・アンダーソンが大きく関わっているわけですが、アンダーソンは、この他にも、彩文土器の西アジアと同じものが中国からも出るというので、その起源と伝播を求めて西域地方へ調査に出かけました。これについては、改めてやっていきたいと思います。この北京原人の人骨が、太平洋戦争の開戦直前に失踪したわけで、今も大きな謎となっています。
地球の自然環境は、大きな流れとともに、氷河期の繰り返しのなかで行われてきましたが、1万2〜3千年前に、その最後の氷河期が終わると、人類の文明らしきものが芽生えてきました。人類は、それまでずっと長い間狩猟採集の生活を行っていたわけですが、生きるための獣の狩猟は、この頃から大型の動物から中型へと変わっていきました。だからそれを取るための道具が必要となってきたわけで、小さくスピードのある動物を捕るための道具として、ヤリとかヤジリとかが発達していくのです。
そこで、次に狩猟採集から農耕への移行についてお話ししたいと思います。

 紀元前1万年頃に、地球が暖かくなってくると、そこに雑草として生えていたムギを、人間が取るようになりました。そこで、オリエントの歴史を語るのに、「一粒のムギから」というキャッチフレーズが生み出されてきたわけです。
ところで宇宙から地球を見た場合、そこに見えないものは国境線です。その頃にはもちろん国境線なんかなかったわけで、強いて言えば、羊の行き着くところが国境とでも言えましょうか。トルコの大地なんかを見ると、国境なんていう概念は吹っ飛びそうです。

 さて、氷河期が終わって暖かくなってくると、ムギが生え、地球も乾燥していきます。アフリカから中国西域にかけて、サハラ砂漠・アラビア半島・イラク・イラン・インド北部・タクラマカン砂漠・中央アジア砂漠・ゴビ砂漠と続いていますが、それは皆北緯30〜40度、北緯35度前後のラインで続いています。この地域では乾燥化が進んでおり、風が西から東へ吹いていますが、これは海で暖まった風が、陸地に向かって吹いているわけで、海上で水分を含んだ風が吹くと、それが山を越えると乾燥した風になるので、雨が少ないわけです。不思議なのは、35度のラインに日本もあてはまっているのに、なぜ日本はそれとは全然違うのかと言うことです。
風が吹く山の向こう側には、当然乾燥地域ができるわけですが、その原則に日本があてはまらないのは、5千メートルくらいが風が越えられる限界だそうでして、インドの北のヒマラヤ山脈は7〜8千メートル級の山脈をなしているため、ぶつかった風は山脈を越すことができないで、ずっと東の方へまわっていく。そのためにミャンマーとかタイとかが多雨地域である温帯モンスーン地帯となる。だから、東南アジアが乾燥地域にならなかったのは、ヒマラヤ山脈のお陰というわけです。したがってこの地帯は、日本を含めて照葉樹林地域になるわけです。
世界には5〜6つの農業タイプがありますが、このモンスーン地域は、日本を含めて華南タイプのイネです。そして、地中海式農業はムギでして、ムギは大きな意味をもっています。

 オリエントでは、約1万2千年前に野生のムギがでてきます。ムギは条件的にアルカリ土壌にあっていまして、ムギが育つと、人間はそのなっているのを取って食べます。まだ栽培ではありませんが、それが始まりです。
野生のムギを人間が食べ始めた以前は、野生のムギは、他のものもそうなのでしょうが、自分で育って実がなると、自分で実を落として種の保存を図っていたわけですが、ムギを人間が取って食べ始めると、ムギは刈ってくれないと、自分で実を落とさなくなってしまったのです。ムギと人間との共存関係が生まれ、ムギが人間に馴染んでいったわけです。

古代エジプト人の麦の収穫(出典:古代オリエント博物館図録より)
野生のムギの原生地は、これもアフリカと言われています。2万年前にエジプトで野生ムギが利用され、1万8千年から1万6千年にかけてそれが段々アフリカからユーラシアの方へ向かって出ていったようです。
西アジアの人々はムギを食するようになりますが、ムギは食べるとき粉にし、パンにして食べるわけです。コメはごはんにして食べますが、ムギは何にして食べるか、それはパンですよね。ムギは殻がものすごく固いけども、コメは脱穀が比較的容易い。そこでムギは粉にして食べるが、イネは粒のままで食べれるわけです。ムギもオートミール、コメも煎餅にして食べますが、それは例外的なものです。ムギは粉にして食べ、コメは粒のまま食べる、それが自然な考え方です。
1万2千年前にムギが人間の食物として利用されていたことは、遺跡の調査でわかってきました。国際日本文化研究センターの安田喜憲さんらによって、植物の種とか花粉化石の分析が行われてきたわけで、これを花粉考古学と呼んでいます。遺跡から出る化石を分析するという自然科学的調査によって、いろんなことがわかってきたのです。
ムギを栽培し、粉にしていたことは、遺跡から発見された遺物によってもわかります。粉にする道具である臼とか、鎌とかが出てきたからです。そうしたことを考えると、食物としてムギが利用されていたことがはっきりしてきました。1万2千年前には、人間が収穫したムギは、その年の食べ物となっていたわけです。だからこの頃は、その年完結型の形態だったわけです。それから2〜3千年の歳月の流れの中で、紀元前7〜8千年くらいになると、段々ムギはパレスチナからシリアへと広がり、やがてイラクやイランの方へと広がっていきます。

そうした経緯を経て、人間はやがてムギの種を蒔いて、それを収穫することが始まります。野生のムギは熟れると自然に実が落ち、次の年それが育つわけですが、栽培したムギは、人間が刈ってやらないと先枯れするのです。シリアからイラクへ伝播するあたりで、共存関係が始まったと考えられています。

サドルカーンで麦を挽く人
(出典:古代オリエント博物館図録より)

 先ほども言いましたが、ムギは収穫しても、殻がものすごく固いわけで、それを脱穀しなければならない。家畜は植物をゴリゴリ食べますが、ムギなどにはノギが出ています。あれは種の保存を図るため、分散するように自然にあるものなのですが、結構固いものですよね。これを牛などはムシャムシャ食べるのです。人間が同じようなことをすると、内蔵は傷だらけになり、第一消化しきれません。だけど牛などは、それを食べて栄養源にしています。あれは胃が4つあって、反芻を繰り返すから消化できるのです。人間は消化できません。
殻を取らないとムギは食べられません。殻を取るにはそれなりの道具が必要です。そこで臼が登場してくるのです。石臼については、1万年前の遺跡から臼と棒が出ています。それで擂り潰し、殻を剥ぐわけです。それは石で擂り潰さないとはがれません。だからムギの殻を取ることは、臼で砕くということであって、殻を取ること自体が粉にすることで、それは自然に行われているわけです。脱穀のために擂り潰す、するとおのずと粉になるというわけです。人間には繊維素分解酵素を持ち合わせていないために、殻を取って粉にして食べなければならないということです。
それで、パンはムギを粉にしたものを、水で煉って作っていくわけですが、コメは食べる場合に器に入れて、煮て食べるので水を使います。ムギは粉を水で煉って、それを焼いて食べます。そこにはおのずと違いがあるのです。ムギが食料としてパンになる運命はそこにあったのです。
 ところで、西アジアと日本との生活で、土器はどちらの方が先かというと、なんと土器についてだけは日本の方が早いのです。日本で土器は紀元前8000年頃に出てくるのですが、それから2千年くらい遅れて、紀元前6〜7000年に、オリエントでは土器が出てくるのです。では、なぜ西アジアで土器が生産されなかったのでしょうか。さきほどのコメと比較関係にあります。コメは水につけて食べなければなりません。しかし、ムギはコメを炊くほど水を必要としません。粉を煉る分だけの水があればいいのです。東アジアでは煮て炊く道具、つまり土器が必要とされましたが、西アジアではムギを潰せば粉になるので、そんなものを必要としません。日本で土器が古い理由は、ここにあります。

パン作りのようす
(出典:古代オリエント博物館図録より)
 また、西アジアの人は甘いものをよく食べます。食事の後でお菓子を食べたりしますが、あれはパン自体に甘みがなく、生地のとき塩を入れるので、パン自体は甘いものではありません。それに反してゴハンはコメ自体に甘みがありますから、甘いものを必要としないのです。だからおかずに塩からとか漬物などを添えたりするわけです。
それから、西アジアの岩質ですが、これも石臼を作り出す材質として幸いしているのです。西アジアは乾燥しているので、ムギを収穫したときには水分がそんなにありません。日本ではイネを収穫したら、かつては田にハゼをして乾燥させていましたが、ムギは元々乾燥地域での食物なので、すでにボロボロになっている。それは製粉するのに合っているわけです。それを石臼で砕けばおのずと粉になっていくわけです。だから考えれば当たり前のような話ですが、ムギは必然的にパンになっていく、これが理由なのです。
ムギがパンになる過程で粉にします。そのとき粉を煉ってパン生地を作る水分があればこと足りるわけですが、東アジアでは煮て炊く水分がいる。だから水があるところでないと共存できないのです。ということは、ムギは過酷な自然に対応できるということです。
 ところで、パンの出来たものはナンと呼ばれますが、それは誰が食べてもよくて、大きな器に入れておけばいいわけです。しかし、ごはんは各自に茶碗がいります。ところがムギにはあまり必要としません。だから土器でなくてもよいわけです。米食の生活では、茶碗は各自のものがいるし、皿とか汁椀とかが発展していきますが、西アジアのパン食は、各自の皿はいらない。誰かそれを必要としても、同じ皿とナイフ、フォークがあるだけです。ムギとコメの違い、それは器の違いをも示しているわけなのです。
また、パンであるムギは熱でもって焼き、コメは直接火にかけますよね。パンは直接だと真っ黒になりますから、余熱で焼きます。そこでパンかまどが発展してくるわけです。コメは燃料に木材が必要なわけでして、日本が温帯モンスーン地域だからこそ、コメが炊けるのです。西アジアには水も森林もない、そんな中で、余熱で焼き上げるパンが出来た要因と言っていいかもしれません。ムギには粉にするための石臼の材料や調理するための材料があった。ムギには必然的にそういった条件がそろっていたということができると思います。
金沢大学の藤井純夫さんは、今まで言ったことについて詳しく論じ、研究されておられ、それらをさらに要約しますと、野生のムギは殻が固い。それを取らないと実が出ない。そうするために石臼で摺る。それは殻と実が同時に粉になっていく過程をも含んでいるということです。ムギは粉にしてパンにしていった。粒として食べれない宿命なわけです。それとは別の視点で見てみると、西アジアのムギは乾燥地域。それを粉にする。ムギはバリバリの状態にある。それをパンにする。パンは天日でも焼けるので、薄くしたものを焼く。コメとは違って、それを直火に使う土器は必要でない。石皿があれば作れるので、土器を作る面倒な工程を必要としない。また、粉にすることは表面積を多くとることになるので、それだけ早く焼ける。だから枯れ木が何本かあれば用が足りるというわけです。
日本での調理は、コメが主食である。だから直火で炊く竈がある。そして二次的に副食が出来ていく。だから先ずコメありきなのです。
 西洋ではオーブンレンジが主体ですが、日本ではコンロがないと炊事が始まりません。日本でも最近はオーブンレンジがあると言われるかもしれませんが、それは所詮脇役です。日本では直火で調理というのが基本です。しかし、西洋では台所の中で大事な位置をオーブンレンジが占めているというのは、こうしたオリエントでの生活から培われたものと言うことができるわけです。(了)
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