講座 『シルクロードの謎』
【第3回 古代オリエントの住まい】
 今から12000年前、古代オリエントで農耕生活が始まると、人々は低地に下りてきて、家を造り始めました。オリエントは土の世界ですから、それで日干しレンガを作り、それを材料として家は建てられています。日干しレンガは、紀元前7000年頃にはすでに使われていたことがわかっています。それは現在まで連綿と続いています。また、日干しレンガは中国の西域の方にもずっと広がっています。9000年前に作られた最初のレンガはコッペパンのような形をしたものですが、そこにも人間の知恵が現われています。手づくねによる伊勢の赤福ではないですけど、手でぐっと押したところがつなぎの役割を果たしてくれるのです。

(出典:古代オリエント博物館図録より)

それから2000年くらい経つと、木の枠の中に土を入れてレンガを作る方法が生まれます。型抜き製法と言われるもので、これだと画一的なものを作ることができます。それには上が丸くなった凸形のものと、普通の四角のものとの2種類があります。私たちが見るのは、四角のレンガの方ですが、初めの頃は片面だけがまっすぐで、もう一方が丸くなったものを作っていたのです。それがどのような使われ方をしていたのかはわかりませんが、おそらく風を通す必要のある干しぶどうを作る場合のようなところに使われていたのかもしれません。密閉しないための知恵として、丸型のレンガが使われていたのでしょう。
画一的なレンガには、縦と横の長さが違ういろいろのバリエーションのものがあり、普通の2倍の70cmくらいの大きさのものも出土しています。これも形枠製法から生まれたもので、家の土台の部分に使われたのでしょう。
ところで、トルコのコンヤの南に、チャタル・ホユックという紀元前8000年紀からの世界で最古の一つといわれる遺跡がありますが、その住居の遺構のなかで紀元前6200年頃に造られた集合住宅のようなものがあります。それを見ますと、各部屋に通じる通路や入り口がありません。ではどこから出入りするのかというと、屋上から出入りしているのです。ハシゴを使って天井から出入りしているのです。これはなぜかというと、人々が洞窟生活から脱してまだ間もないので、動物に襲われることからの自衛本能だと思います。地面の近くにではなく、安心できる高いところに出入り口をつけて、屋上を通路にして生活していたのです。

チャタル・ホユックの住居
(出典:世界考古学大図典・同朋舎より)


テル・ソンゴルの小部屋の住居跡
(出典:古代メソポタミアの謎・光文社より)
次に、イラクのテル・ソンゴルの平面図を見ると、この遺跡はバグダッドの130H北にあります。この集落址は、紀元前5000年代のものですが、住居の遺構面は、約6×8mの建物プランです。それを間仕切りして12の部屋が作られています。そこには縦にずっと通路・入口があって、そこから入っていくようになっています。6×8mはどれも同じようなプランです。それより大きいものがないのは、この時代には皆が同じプランの住居に住んでいたのでしょう。当時は、まだ平等の生活をしていたのです。そして、6×8mがさらに3つに分かれています。約1.5×2mの部屋があることになります。これは寝るにしても居住はできないではないかと思いますが、なぜこれが住居址かというと、火を使っていたために壁が焦げたりしていることから、ここで生活していたのは間違いないと思われるのです。昼間は農耕や狩猟で外に出ていて、夜寝るときだけ使っていたのではないでしょうか。対角線上に寝ればスペースはとれるのです。今では決して考えられない空間です。
ではどんな寝方をしていたのでしょう。現在の私たちのように体を真っ直ぐ伸ばして寝ていたとは考えられません。ということは膝小僧を抱えて寝ていたのではないでしょうか。いつも緊張感をもって、構えるかっこうで、丸まって寝ていたのでしょう。そう考えられるのは、死んだ人の葬り方に屈葬というのがありますが、要するにそれは蹲(うずくま)る形なのです。ですからそのスタイルは、当時の人々の寝姿そのものなのではないでしょうか。屈葬のスタイルと7000年前の遺構のプランを考え合わせることによって、人々の住居プランがわかってくるのです。
イラクのハッスーナ遺跡は紀元前5000年頃のものですが、日干しレンガは紀元前6000年くらいから作られ、段々暮らしが今のものに近いプランが出てきます。作り方は日干しレンガを積み、屋根は枯れ草や木の枝を渡して、その上に草を積んで、さらにそれに土を塗り込めて作り上げたもので、こういった生活は、現在のイラクでもそれほど変わっていませんし、中国の西域地方でも見られるものです。日干しレンガの家は、連綿と5000年から7000年近く、このように造られてきたのです。

70cmの日干しレンガ
(出典:古代メソポタミアの謎・光文社より)
メソポタミアなどオリエントでは、本来は平地に暮らしていたはずのところが、実際は山のようになっていますが、これはテルとかテペとか言われるものです。家は今のようなレンガを積み、土台には石を使います。かつて東京の古代オリエント博物館のスタッフがシリアのテル・ルメイラで発掘調査を行いましたが、その遺構プランに基づいて復元したものがあります。紀元前1800年くらいのものです。日干しレンガで壁を作り、土を塗り込めて建てられていますが、壁龕と呼ばれる窪みがあって、そこは神像を置いたり、灯明皿を置いたりしていたのでしょう。そして、室内には竈とパン竈があります。また、ドアと屋根がありまして、ここには木材が使われています


テル・ルメイラの復元住居
(出典:古代オリエント博物館図録より)

カマン・カレホユック(トルコ)の墳丘(テル)
遺跡を掘ってみても、本来は木材が使われているはずなのですが、それは発見されていません。石は発見されますけど、ドアなどに使われていた木材は出てこないのです。しかし、ドアを回転させる軸石は出ているのです。だからドアに木製のものが使われていたのは確かなのです。これはどういうことでしょうか。こうした地域では、木は貴重品なのです。だからよそに移るときなどは、一切合切木は持っていくのです。それゆえ遺跡自体に木が残らないのです。家を引き払うとき、屋根はぶっ壊して出ていきますから、建物自体はすぐ崩壊してしまいます。屋根などは石や日干しレンガの上に崩れ落ちてしまいます。そして、やがて次の人がそこに住み着きます。そうした繰り返しによって山みたいになっていくのです。崩れたレンガや石は表面に残る、建てて壊し建てて壊しが繰り返されるうちに、こうして平原に大きな墳丘ができるのです。

カマン・カレホユック(トルコ)の発掘調査状況
人々の生活が生まれると、段々農耕などが盛んになるにしたがって支配者が生まれ、ムラができ町ができ都市ができていく。都市ではイラクのウルクが最古ですが、紀元前2300年のウルも最古の一つでして、それがどんなものだったかと言うと、大成建設の作成したコンピューターグラフィックが復元しています。紀元前3000年頃から都市は出来ていきますが、紀元前2300年頃、このコンピューターグラフィックによると、真ん中に3段の基壇がありますが、これが聖域であるジグラッドという神殿です。ここにはイナンナという月の神様が祀られています。最低で60〜70mの基壇で、それ以上の大きいものもあります。エジプトのピラミッドとメソポタミアのジグラッドとの違いは、ピラミッドはお墓、ジグラッドは神殿で神様が降りて来る聖壇で、そこで王様と対話がなされ、マツリゴトが行われるのです。だから出来るだけ高いところに造ろうとします。もっと新しくなると7段のものが造られたりします。
ウルの都市は、ユーフラテス河の辺りにつくられていますので、中国のトゥルファンの交河故城のように見えます。河に囲まれているので、西と東に船が着けられるようになっています。神殿や住宅などの生活空間があって、下の方に墓地があります。こうしたなかで、やがて金属とかガラスとかが作られる文化が、都市が生まれるなかで出来ていくわけです。ちなみに神殿は、強固なものですから、今までの日干しレンガではなく、焼きレンガが作られていくことになります。そして、アスファルトで接着した従来とは違う素材のものが作られるようになります。(了)
大成建設によるウルのCG復元図
(出典:古代オリエント博物館図録より)
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