講座 『シルクロードの謎』
【第5回 中国新石器時代の半坡遺跡】
 黄河中流域に彩文土器(中国では彩陶と称する)を代表する文化がありました。それを中国考古学では仰韶文化といいますが、その最も有名なのが半坡(はんぱ)遺跡です。遺跡は陜西省の省都である西安から東に6H行った滻河(さんが)(渭水の支流)の河岸段丘上にあります。現在、河は遺跡から800m離れたところを流れています。元々は河床から約10mの高さにあった集落でした。

西安周辺地図
(「西安とシルクロード」
・ダイヤモンド・ビッグ社より)

半坡遺跡位置図
(「古代中国の遺産」講談社より)
 半坡遺跡は1953年、火力発電所の建設工事中に発見されたもので,この発見により中国先史時代文化の科学的研究が始まったといっても過言ではない重要な新石器時代の遺跡です。現在、遺跡はドームで覆われて保存され,丸ごと博物館になっています。


      ドーム内の半坡遺跡

半坡博物館

 半坡遺跡は長期間にわたり生活が営まれていたところで、4つの文化層が確認できる大集落跡です。また、いろいろな埋葬形態をもつ共同墓地を伴っています。遺跡の面積は70,000Fで、そのうちの約半分の30,000Fが居住区です。遺跡は完掘されているわけではなく,現在までに発掘調査が行われたのは約10,000Fに過ぎません。   
 半坡遺跡は紀元前5000〜4500年の住居址で,堀を巡らしたいわゆる環濠集落でした。最も栄えていたときには約200軒の住居があり,2〜3人の家族構成であったとすれば,人口は500〜 600人ほどの集落ではなかったかと考えられます。


        集落復元図

環濠集落復元模型
(「古代中国の遺産」講談社より)

 住居は円形と方形の二種類ありますが,一般的には円形の方が古いものとされています。住居の直径は4〜6mほどで,周壁があって,杭列が内部と外部につくられていました。屋根はとっくに崩れ落ちていましたが,幸いにもそれが床に積み重なる状態で発見されたので復元が可能でした。 
 住居近くの貯蔵穴からは穀物のアワのほか、牛・豚などの動物骨も発見されており,人々の生活ぶりが明らかになりました。その基本的性格はアワを主体とした原始農耕でした。この一帯は黄土地帯ですから農具自体に大がかりなものは必要なく,ツルハシのような用具があれば簡単に土を掘り起こすことができました。
 一方、墓地ですが、成人は仰向けの伸展葬の形態で共同墓地に埋葬されていました。また、子どもは甕棺に入れて住居の床に埋められていました。ところが、成人墓のなかに丁重に埋葬されていた子どもの墓が一基発見されたことが注目されます。


復元された円形住居
   
 当時、ある程度原始共産制社会で平等な生活を営んでいたはずなのに,こうした子どもが特別手厚く埋葬されているものが発見されると,そこには一種特別な地位をもつ長(おさ)の子どもか,それに関係のある子どもが埋葬されていたのではなかったかとも考えられます。そうなると,原始母系制社会が崩壊して,ある種の身分或いは階層が芽生え始めた時代だったのかもしれません。
 また、ここは彩文土器を有する文化ですから,土器製作が盛んに行われていました。しかし、まだロクロは使用されていませんでした。いわゆる巻上げ法といって,泥質の土を輪にしてそれを積み上げていく手法でつくった土器です。一般的には広口で浅底の平らまたは丸っぽい盆や鉢、そして甕などが多数出土しています。

       人面魚文の盆

 この文様から考えると、半坡遺跡に生きた人々は農耕を行いながら、漁撈も盛んに行っていたようです。そうすると,漢代に司馬遷が著わした『史記』本紀に出てくる夏王朝(かつては幻の王朝と言われていた中国最初の王朝)の始祖である禹(う)王とその父は,この川の神のような文様がモデルだったのかもわかりません。禹王の父親はサカナヘンに系という字を書いた鯀(こん)というもので,この鯀は黄河の治水に失敗しますが,子の禹王が成功して,それが栄えるといった話の内容です。となると,人面魚身の形は鯀そのものだったのではないでしょうか。つまり,そのルーツは半坡遺跡の彩文土器に描かれた人の顔であり,それが夏王朝伝説のなかの治水の神を作り出したのだと言えます。半坡遺跡の彩文土器には、ほかに魚だけの文様もあります。どれもモチーフ的に面白く独創的です。しかし、これらがなにを目的にしていたのかはよくわかっていません。今後、こうした絵がなぜ描かれたのか,呪術面からのアプローチが必要であると思います。

 そうしたなかで彩文土器は晩期の文化層から多く出土しています。なかでも半坡遺跡の代表的かつ特徴的なものが魚と人の頭がドッキングした文様の鉢です。この彩文土器は内面に黒で文様が施されているのですが,それは土偶のような顔を描いた呪術的な人面を左右から魚が銜えている独特のデザインです。ところで、この人面の部分はなにに見えますか? 単なる人でしょうか? 蛙のようでもあり、天道虫のようにも見えます。この文様はほかの土器にもよく使われており,蛙と魚と人をモチーフに描かれた写実的できわめて独創的なものです。               

人面魚文の盆


単魚文の盆
 つぎに、仰韶文化である半坡遺跡の文化の社会性,経済性を考えてみますと,それを示唆するものが発掘調査によってわかってきました。今でこそ黄土の荒れた大地ですが,仰韶文化が育まれていた半坡遺跡一帯は,当時、今よりもっと温暖湿潤な気候であり,森林に覆われていたため,樹木や竹が群生していました。そばには滻河が流れ、沼沢地も多くあって水が豊かだったでしょうから水草が繁茂し、魚などが多く棲む自然環境でした。だからこそ、環濠集落として河を巡らせることができたのです。そうしたなかで半坡遺跡の人々は多少狩猟的な要素はあったにせよ,半農業・半牧畜的生活を営んでいました。つまり、社会経済的には農業主体のアワ栽培を営みながら家畜も飼育し,また、それと同時に狩猟・漁撈といった採集生活を行っていたのです。
 アワは黄土地帯の土壌にまことに適合しやすい植物でした。成熟期間も短く,保存方法も簡単であることから,この辺りではもっぱら栽培されていたのです。もちろんほかに野菜などもありました。発掘調査により住居内からはハクサイやカラシナなどの種がみつかっています。

遺跡出土の石斧
 農耕生活の遺物には、ほかに耕地を切り開くのに必要な石器も約1000点出土しています。石鋤や石斧は森林を伐採し,開墾して耕地にするための道具でした。
 家畜は,犬や豚が飼育されていました。ほかに馬・羊・牛・鶏の骨も数は少ないけれども出土しています。羊・牛・鶏は家畜の可能性はあるものの,現段階ではまだ学説的には認められていません。また、林や沼沢地に棲息する鹿・兎・アナグマなどや鳥,鯉などが狩猟漁撈の食料とされていました。
 最後に、半坡遺跡を中心とした仰韶文化社会の性格と位置付けを考えてみましょう。仰韶文化は基本的には女性を中心とした社会ですから、半坡遺跡でも母系制社会が構成されていました。狩猟採集や土木作業は男性が担い,女性の仕事は農業や土器づくりなどがもっぱらでした。これはオリエント社会でもそうでした。
 しかし、その一方で,仰韶社会は母系制社会でなく,男子の系列を拠り所にしているという考え方もあります。そうした説は農業が初期の原始的形態ではなくて,仰韶文化のときには既に終末段階に至っており,いわゆる社会的分業が行われていたのだとするものです。その根拠として、墓の副葬品や埋葬形態にある程度格差が認められるということがあげられています。定説的には,なお母系制社会とされていますが,ただ,母系から父系へと至る一つの過渡期にあったのではないかということも一応考えておく必要はあろうかと思います。
仰臥伸展葬の合葬状況

環濠づくりの様子
 仰韶文化の社会的性格を解明していくには考古学調査をさらに行い、客観的証拠を積み重ねていく必要があると思います。父系制社会であったと論ずるのは簡単です。しかし、現段階ではやはり原始的農業が女性を中心に行われていたと考えてよいでしょう。集落の中心的なところには公共の集会所のようなものが建てられており,そこでいろいろなことが図られ,相談されながら生活が営まれた社会であったと考える方が自然だと思います。とはいえ、仰韶文化における中国文明の研究はまだまだ未知の部分が多い魅力あるテーマであると言えそうです。
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