講座 『シルクロードの謎』
【第7回 西アジアの古代ガラス】
 古代のガラスは、今とはかなり違うものでした。私たちのイメージでは、ガラスは一般的に透明なものであり、場合によってはそれに色をつけようとします。しかし、昔のガラスには元々色がついていたので、反対に何か物質を混ぜて、それを透明にしていこうとしたのです。

 ガラスとなるべきものは、人間が生まれる前からすでに地球上に存在しており、その最も身近なものに黒曜石があります。黒曜石はガラスの要素をすべて含んだいわゆる天然ガラスと言えます。ちなみに、黒曜石は日本では島根県の隠岐ノ島や大分県の姫島などにあり、古くから石器として使われていました。その黒曜石は、いわばガラス以前のガラスといってよいかと思います。

天然ガラス・黒曜石

黒曜石原産地
(島根県隠岐の島)

黒曜石原産地
(大分県姫島)
 そのほかに古いものでは、電光ガラスまたは雷光ガラスといったものがあります。これは雷が砂や石のところに落ち、熱で溶解されてできたものです。これも、人間が生活を始める以前に出来たガラスと言えます。

 そして、そうした自然の長い歴史を経たのちに、やがて人間は土器を作り、青銅器や鉄器を作るために金属を溶解する技術を経験のなかから獲得し、ようやく人工のガラスを生み出していったのです。
 古代人が作った最初の土器は、ただ土を固めただけのものでした。西アジアの土はソーダ分を含んでいますから、結構土が固まるのです。そして、やがてそれを火にかけたら固くなることを知り、そこから素焼きの土器が生まれました。しかし、素焼きの土器は水が漏れますので、漏れないようにすることを考えます。例えば土器を焼いたときに付く灰が土器や竈の内部でドロドロした釉薬のようなものになることに気付き、それを上薬としてかけたところ土器から水が漏れないことを知ったのです。つまり、釉薬は無意識の体験のなかから生まれた知識だろうと思います。その釉薬を一つは土器にかけ、もう一つはガラスとして発展させていったのです。
 土器は土をこね、最初に形を作ってから、それを焼いて作り上げるものです。一方、ガラスは、熱でドロドロになったものから形を作っていくもので、そこが根本的に土器と違うところです。また、技術的には共通性があっても、ガラスは大きさを変えることができますし、それを溶かせばまた違うものが出来るといった利点があります。

 ところで、ガラスは固体ではなく、基本的には液体です。したがって、焼物などの有機物質と異なり、ガラスは無機物質です。ですから、ガラスは形になっていても固体の状態ではなく、「固い液体」「無定形物質」、つまり、液体が固まった状態になったものということです。私たちはガラスを固体と思いがちですが、それは単に溶けていたものが冷やしていくときに固まった状態をいうものです。


古代ガラス容器の作り方
(「古代エジプト」教育社より)
 さて、西アジアのガラスは、基本的にはアルカリ系のソーダ石灰ガラスです。しかし、中国など東アジアでは石灰のかわりに鉛を使いますので、鉛ガラス、鉛ソーダガラスなどと呼ばれています。ですからガラス文化を考える場合、西アジアではソーダ石灰ガラス、中国など東アジアでは鉛ガラスがもっぱらです。

エジプトのコア・グラス
(紀元前15世紀)(「古代ガラス」平凡社より
 西アジアでガラスが発明されたのは、紀元前2300年頃のメソポタミアだったと考えられています。それは塊のようなものに細工をして作られたビーズや小玉などでした。それが容器として作られるようになったのは紀元前1600年頃で、イラクのテル・アスマルやエリドゥ遺跡から出土したものがそれであるとされています。テル・アスマルはイラクの北方、バクダッドから約80Kmのところにある遺跡です。また、南のバビロニア地方からも紀元前1600年紀のガラスが出土しています。

 そして、それから約100年遅れてエジプトでガラスが作られました。オリエント学者の間ではエジプトの方が先、メソポタミアの方が先といった論争がありますが、今では発掘調査などから100年くらいメソポタミアの方が早いというのが定説になっています。しかし、盛んだったのはエジプトの方です。

     
      中国の鉛ガラスの盤(前漢時代)
(「正倉院の故郷」NHK大阪放送局より)
     
 紀元前15世紀のエジプト王国はあまり遠征や外征をせず、自国内のことに目を向けていました。ですから、その頃の遺跡には素晴らしいものが今も多く残っています。そのエジプトが紀元前1400年代のトトメス3世のとき初めて外征したのです。外征先はメソポタミアでした。その結果、メソポタミアの技術がエジプトへ伝わってきたのです。
ということは、トトメス3世の外征は、エジプトでのガラス作りに大きく貢献したといえます。
 紀元前15世紀〜11世紀にかけて、即ち18〜21王朝までがエジプトでの古代ガラスの黄金期でした。その後エジプトではガラス作りがピタッと止まり、それから約500年、空白の時代がありました。そして、紀元前6世紀頃、ペルシア帝国に服属されると再びガラスが作られ始め、2度目の黄金期を迎えます。この時期に透明ガラスの技術は大いに発展を遂げ、それによって光の屈折率を利用して輝きを増すといった、つまり、ガラスにカットする技術が生まれました。

西アジアのトンボ玉(紀元前5〜3世紀)
(「ガラス入門」平凡社より)

吹きガラスの製造
(「ガラス入門」平凡社より)
 そうした流れのなかで、エジプトは紀元前1世紀頃、今度はローマ帝国に服属されて、そこで生まれたのがローマングラスと呼ばれるものでした。要するに、西アジアのガラスは、メソポタミアで生まれた技術がエジプトに伝わり、そこで発展を遂げ、それがローマングラスになっていったのです。

 ローマングラスとは、いわゆる吹きガラスのことです。それまでガラスは、メソポタミアやエジプトでは宝石に代わるものでした。宝石の入手が困難だったからこそ、例えばラピス・ラズリなどを人工的に作ろうとし、それがガラスを作る発端だったのです。したがって、ガラスが作られても、そのガラスは宝石と同じ貴重品として権力者の身をまとったり、使用したりするもので、一般の人にまで伝わるものではありませんでした。

西アジアのローマン・グラス(1〜5世紀)
(「古代ガラス」平凡社より)
 ガラスは、本来、宝物的価値のあるものでした。そして、宝石に代わる色合いなどを出すのですから、当時の最新技術ではなかったかと思います。そうした技術を駆使したなかで作られたものなのに、それを天と地がひっくり返るようなことを仕出かしたのが、紀元前1世紀頃のエジプト人でした。今まではガラス種を溶かして鋳型に入れたりして作っていたものを、鉄のパイプのところにドロドロしたガラスの種をくっつけて、シャボン玉を作るみたいにフーッと吹いて形にする技術を開発したのです。そのローマングラスと称するものがローマ時代にシリアの一地方で作られ、それで大量生産が行われるようになったのです。したがって、今まで貴重品だったものが簡単に作られるようになったために、ガラスは一般的なものになってしまったのです。つまり、紀元前1世紀頃にローマングラスが作られたことは、ガラス文化のなかの一つの大きな画期的な出来事となったのです。それまでは王侯貴族などの独占物であったものが、一般の人々の間でも銅貨1枚で買えるような安価なものとなり、それによってガラスは宝飾品から実用品として普及していったのです。

 なお、東アジアと日本におけるガラスの文化については、また別の機会にお話しすることにします。
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