講座 『シルクロードの謎』
【第12回 広島の盆灯籠と中国の彩陶壺】

 広島市近郊の夏の風物詩に盆灯籠があります。今回は、それに中国の彩陶壺を結びつけてお話してみましょう。

 盆はもともとインドで7月15日に先祖の霊をお迎えする盂蘭盆会という仏教行事で、それに中国の道教の三元思想の一つである中元つまり7月15日が結びついたことから、やがて盆は中元を意味するものとなり、今日では日頃ご無沙汰している親兄弟や世話になった人などを訪問して感謝の意を表したり、「お中元」と称して心ばかりの品を贈ったりするものとなっています。しかし、そもそも盆は先祖を敬う仏教行事の盂蘭盆を指すものであり、さらにそのルーツを探れば「盆」とは、盂蘭盆に迎える先祖の霊にものを供える器が本来の意味でした。
 この盂蘭盆会がインドから中国に伝わり、盂蘭盆経として訳されたのが3世紀、それが日本に伝えられたのは7世紀初めのこととされています。盂蘭盆とはサンスクリット語のウラボンの音訳で、倒懸(とうけん)即ち逆さ吊りを意味しています。ですから、言い換えれば逆さに吊るされるほどの苦しみを味わうということです。それ故、そうした苦しみを受けている故人の霊を救うための追善供養が盂蘭盆会ということになります。
 お盆の行事が行われるのは、本来は太陰暦の7月15日のことで、したがって満月の日に行われるものでした。しかし,東京など関東を中心とした地域ではそうしたことを無視して、現在では太陽暦による7月15日の前後3日ないし4日間を盂蘭盆会として行っています。一方、満月の日とまではいかないまでも、旧暦に合わせて月遅れの8月に行っているのが広島をはじめ関西などを中心とする地域です。

広島の盆灯籠
 お盆になると迎え火を焚いて先祖の霊を迎え、また、送り火を焚いて霊を送り出す門火の行事が各地で見られます。しかし、浄土真宗では門火の風習はないため、それはほかの宗派の行事であり、広島県下でこうした光景が見られるのは多くないようです。ですがその代わりに、浄土真宗では灯明を掲げる風習があり、そのためお墓や玄関先に灯籠や堤灯をともすことが盛んに行われてきました。

盆が近づくと色とりどりの灯籠が並ぶ
(広島市寺町にて)
 広島の安芸地方はとりわけ浄土真宗の信徒の多いところで、そうした人たちを「安芸門徒」とよんでいます。彼らにはお盆になると墓いっぱいに灯籠を立てる風習があります。それはこの時期のテレビニュースで必ず取り上げられるほど壮麗なもので、赤や緑や黄や白色など色とり取りの盆灯籠が飾られる広島の風物詩となっています。この光景は広島市とその周辺地域にだけ見られる独特のもので、「広島(安芸)の盆灯籠」と呼ばれ、灯籠はその色や形から「朝顔灯籠」の名で親しまれています。
 この盆灯籠がいつ誰によって作られたのか定かではありません。一説によると、江戸時代の終わり頃、広島城下の紙屋町に住む紙卸商を営む主人の愛娘が亡くなったとき、その死を悼んで竹と紙で作った灯籠を墓に飾ったのが始まりとも言われています。大正期に入って商売として夜店などで売られるようになったことから流行りだし、第二次世界大戦の悪化で一時廃れましたが、昭和30年代半ばからの高度成長とともに復活しました、現在では火災予防やあとのゴミ処理の観点などから自粛が呼びかけられていますが、広島旧市街地の寺町一帯十六か寺の墓地に立てられた盆灯籠の風情はなかなかどうして捨てたものではありません。ちなみに色とり取りのうち白色灯籠は初盆用として使われています。
 

中国甘粛省・青海省位置図
(「地歴高等地図」帝国書院より)



柳湾墓地のある青海省楽都県の位置図

 ところで、隣国の中国西北地区に位置する甘粛省・青海省の黄河及びその支流域一帯には、約5000年から3000年前の埋葬遺跡が数多く存在しています。そのなかで紀元前約3000年から2000年にかけての墓地には棺の中の遺体と一緒に、副葬された彩陶壺が発見されています。
 彩陶とは文字どおり土器の表面を鉄やマンガンなどの顔料で赤や黒色に描いたもので、その文様は幾何学文や動植物文のほか、蛙の体を波線状にデフォルメ化したものなどさまざまです。彩陶は一般的には彩文土器と呼ばれていますが、ただ中国には土器にあたる字がないので彩文の彩と陶器の陶をとって彩陶と呼んでいます。この彩陶を中国で最初に発見したのはスウエーデンの地質学者・考古学者のアンダーソンでした。それは1920年代初め、河南省の仰韶遺跡においてのことでしたが、そのあと、彼は甘粛省と青海省に出かけ、現地の遺跡で発掘調査を行い数多くの彩陶壺を収集しました。それが中国の近代考古学確立の礎となったといっても過言ではありません。

柳湾墓地出土の彩陶(彩文土器)

柳湾墓地(「青海柳湾」文物出版社所収)
 彼はこの一連の調査によって、いわゆる「居住地」と「墓地」とで発見される彩陶の根本的な違いは、生者が使う器と死者への弔いの器の差であると考えました。現在、この見解は中国内外の考古学者から否定されています。
 しかし、私は1996年と98年の2度、アンダーソンが調査した遺跡などを歩いてみて、その立地等から彼の見解が基本的には誤りではないと感じました。とりわけ彼が調査したものではありませんが、1974年から5か年にわたって青海省文物考古研究所が行った青海省楽都県の柳湾墓地と呼ばれる遺跡を訪れたとき、私はそれを確信しました。

柳湾墓地復元模型
(青海省文物考古研究所柳湾展示室にて)

87個の彩陶壺が副葬された564号墓
 柳湾墓地は甘粛省の省都蘭州と青海省の省都西寧との中間にあり、黄河の支流湟水北岸の台地上に位置する遺跡です。ここには約1500基の墓が存在し、そのすべての棺のそばに土器が副葬されていました。土器の出土総数は13227点に達し、そのうちの7109点が彩陶壺でした。そして、ここの遺体の埋葬形態を考察してみますと、階層社会の様相が見られるものの、まだ基本的には母系性の社会でした。そうした棺に横たわる遺体、もちろん現状では人骨化したものですが、そのそばに少なくとも1個ないし2個、最も多い場合には91個の土器が副葬され、なんとそのうちの87個が彩陶壺でした。この事実に直面したとき私は、彩陶壺はもちろん生活用具としても作られはしましたが、やはり多くは死者への副葬具として作られたのではないかと考えました。
 中国社会科学院考古研究所の韓康信教授の調べでは、柳湾墓地に眠る遺体の平均寿命は約37歳で、その内訳は全体の4分の1が青年・壮年者、また約半数が未成年者で、そのうちの半分が幼児だそうです。これをそのまま受け止めて考えてみますと、こうした新石器時代に生きた人々の間では、いつも人が誕生し、亡くなっていくことが頻繁に繰り返されていたようです。そこには現代の私たちが身近な人の死に直面したときの悲しみとは違った感情があったのではないでしょうか。転生とか復活といった死生観、宗教観を現実のものと捉えて暮らしていたのではないでしょうか。

中国社会科学院考古研究所・韓康信教授
 そこで先ほどの盆灯籠ですが、私は柳湾墓地の彩陶壺が棺の中の遺体のそばに副葬されているのを見て、この「広島の盆灯籠」の情景が頭に思い浮かびました。柳湾墓地にはいくつかの窯跡も発見されているそうです。恐らくお盆が近づいてくると、身近な人々が色彩豊かな盆灯籠を買い求め、墓前にあふれんばかりに立てて追善供養を行ったように、身近な人の死に直面したとき、柳湾墓地の周辺に暮らす人は、壺職人が作った文様豊かな彩陶壺のなかから気に入ったものを選び、遺体のそばに副葬したに違いありません。とりわけ87個の彩陶壺が副葬された人は多くの人たちから慕われていたことでしょう。そして、それを弔う人々は死に際しての悲しみよりも、むしろまた新たに生まれかわってくることを信じる明るい希望に満ちた心を持っていたに違いありません。
 こうした新石器時代の精神文化の基層が、「盆灯籠」を墓前に飾る広島人の心として、その延長線上に継承されていると考えるのは飛躍しすぎでしょうか。
 
 
柳湾墓地出土の大量の彩陶壺の前で
(青海省文物考古研究所柳湾展示室にて)
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