たったひとつだけ、後悔している恋がある。
君は今でも俺を想ってくれているのだろうか?
俺はよくそんな虫のいい事を、ふと考えてしまう。
思いやりのあるまっすぐな彼女の想いを信じきれずに、傷つけてしまったのは俺なのに。
彼女と別れ、歌舞伎に打ち込んだ日々。
その中で、やっと気付いた心の奥の穏やかで深い想い。
過去の大きな深い恋の傷。
いつも鮮血を流していたそれは、いつの間に血を止めていたのだろうか?
若く激しかった恋の傷跡は、一生治ることはないだろう。
それでも、気付かない内にゆっくりと癒されていた。
本当に少しずつ。どんな逆境でもまっすぐ顔を上げ、前を向いて歩いていく彼女の存在に。
彼女と出会って、燃え上がるような激しい恋とは違う、穏やかで暖かい恋もあるのだと知った。
それに気付いたのは、彼女と道を別ってずいぶんと経った頃なのだけれど。
彼女は俺の側にいないのに、記憶の中の運命に立ち向かう健気な姿が、そして彼女が俺にくれた言葉の数々が、今でも俺を癒してくれている。
もっと早く自分の気持ちに気付いていたら。
俺はきっと、彼女の手を離したりしなかった。
俺が別れを告げた時の、彼女の顔を今でも覚えている。
涙を瞳いっぱいに溜めて、それでも泣くまいと、震える唇を噛み締めて微笑んだ。
青ざめた顔の切なく哀しい微笑み。
若かったのだと思う。
恋で傷ついた俺は、彼女を恋で深く傷つけた。
「それでも、あたしは依織くんが好きだから……。この想いだけは許して?」
涙をこらえて、鮮やかに微笑んだ君が瞼の裏に焼きついている。
彼女は、今でも俺を想ってくれているのだろうか。
彼女を想いながら、素直に手を取ることが出来なかった臆病な俺を……。
穏やかで暖かな恋は、すべてを一瞬で焼き尽くすような激しい恋より、熾き火のように長く深く俺の心を苦しめる。
「なあ…」
珍しく自宅に戻った俺を、リビングでTVをつけたばかりの皇がぶっきらぼうに呼んだ。
皇との関係は、昔よりも格段によくなったけれど、やはりどこか小さな棘が刺さったかのような違和感がある。
俺は足を止めて、ソファに座っている皇を振り返った。
「なんだい?」
「あんたさあ、まだあの女と付き合ってるのか?」
「あの女?」
皇が俺の女性関係に口を出してくるのは珍しい。
昔の事があるから、皇は出来るだけ俺のプライベートには立ち入ってこないのに。
それに皇が知っている女性といえば、数えるほどしかいないはず。
俺がすぐに該当する女性を思いつかなかったので、皇は少し呆れたようだった。
「あの女だよ。家政婦してた」
「むぎちゃんのことかい?」
「そうだよ」
驚いた。皇の口から出たのは、何年か前にあの家を出たっきり、連絡も取っていないむぎちゃんのことだったから。
「…付き合ってないよ」
俺が、彼女の手を振り払ってしまったから。
「へぇ…」
しかし俺の答えに、皇は意外そうに眉を上げた。
「どうしたんだい?」
皇の様子が引っかかって、俺は問い返してみる。
すると皇は軽く顎を上げて、面白くなさそうにTVを示した。
「これだよ」
ちょうどつけたTVでは、俺が昔の恩で断りきれず、渋々出演したトーク番組の放送が始まったばかりだった。
「これがどうかしたのかい?」
「あの女がいる」
「え?」
思いもよらない皇の指摘に、俺は驚き画面に釘付けになった。
それはカメラが100人近い女性観覧者をぐるりと映した時に目に入った。
記憶にあるよりも少し大人びた彼女が、一瞬だけ小さく映った。
彼女は、落ちついた穏やかな微笑みで俺を見つめていた。
別れた頃よりも、美しく艶やかな女性になった彼女が、俺と同じフレームにいる。
気付かなかった。気付けなかった。
愛しい彼女の存在に。
手が届く場所にいたのに。
声さえかけてくれなかった彼女。
司会者が求めた俺に対する質問にも手を上げず、顔を逸らしてしまった彼女。
今の彼女にとって俺の存在は何なのだろうか?
あの番組で俺は日頃、雑誌のインタビューでも答えない、恋の話をした。
しかも軽い気持ちで付き合った女性達や、雪音のことではない、たったひとつ後悔している彼女との恋の話を。
当たり障りの無い恋の話で誤魔化せたものを、俺は何故かまだ心の中に残っているあの恋を語った。
何かを感じていたのだろうか?
誰にも言うことなく、秘めてきた想いだったのだけれど。
皇がTVをつけて気付かなければ、俺は彼女がいたことを知らないままだった。
彼女が見ていた前で、俺は彼女との恋を語った。
もしかすると、これはきっかけなのだろうか?
携帯のメモリーに残ったままの彼女のナンバー。
別れてから、一度もかけてないナンバーだ。
このナンバーの先に彼女はいるのだろうか?
もし彼女がナンバーを変えていたら、きっともうそこで終りになってしまう。
彼女は俺の今のナンバーを知らないから。
秀之介を襲名する時、俺は今までの過去を清算する意味も込めて携帯を変えた。
彼女とは、すでに別々の道を進んでいたから知らせなかったのだ。
知らせても意味はないと思っていた。
それでも、俺からは消せなかった彼女のナンバー。
このナンバーはまだ、彼女に続いているのだろうか?
俺は画面に表示されたナンバーを見つめた。
back | top | next