「あ、電話…」





 騒がしい居酒屋で、バッグからハンカチを出そうとして、あたしは携帯の揺れに気付いた。
 お気に入りの着メロはこの騒がしさで聞こえない。
 あたしはバッグを抱え、隣にいた子に電話だからと断ると、そのテーブルから慌てて離れた。






 画面に表示されていたのは、アドレスにない見知らぬ番号。
 間違い電話かな?と思いながら、あたしは恐る恐る声を出した。





「もしもし?」
 一瞬の沈黙……。
 やばい!やっぱりいたずら電話?
 あたしは、嫌な思いをする前にすぐに切ろうとした。すると……。






『……むぎちゃん?』





 微かな雑音交じりの電話の向こうから、懐かしい声がした。
 その声に、あたしの鼓動は跳ね上がり、息が止まった。
 聞き間違いじゃ、ない……よね?





「……もしかして、依織くん?」
 声が震える。期待と恐れで……。
 すると電話口の向こうで、微かに笑う気配がした。
『そうだよ。……久しぶりだね、むぎちゃん』





 ほんの少しだけ掠れた依織くんの柔らかい声。
 あたしの気持ちを依織くんに気付かれてはいけない。
 あたしは咄嗟にそう思った。





 依織くんの重荷になるような想いは、封印しなくちゃいけない。





 あたしは懐かしさと溢れそうな愛しさに泣きそうになるのを堪え、大きく深呼吸してから勤めて明るい声ではしゃいでみせた。
「うわ〜、ホントに久しぶりだ〜。どうしたの?」
 昔と変わらずしゃべれますようにと願いながら。






『君が僕を見に来てくれてたみたいだから、ついね』
「あ、気がついたんだ?」
『フフ、実は皇がTVでね。……声をかけてくれればよかったのに』
 しゃべり方も笑い方も、依織くんは変わってなかった。
 雑音混じりでも、依織くんの穏やかな柔らかい声は、あたしの耳に優しく響く。
 それを聞くだけで、どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう……。





「だって、仕事中だし、まわりは依織くんのファンばっかりだもん。収録中に、声かけられるわけないよ」
『確かにね』
「でも、あれってすごい競争率だったんだね。友達がみんなに名前借りてハガキ出しまくってたよ」
 あたしは会話が途切れるのが怖くて、たたみかけるようにしゃべる。
『それはすごいね』
 依織くんは昔と同じゆっくりとしたペースで、あたしの話を聞いてくれていた。
「うん。すっごくいっぱい出したのに、あたしと本人のハガキしか当たらなかったんだって」
『もしかして、むぎちゃんはハガキが余ったから来てくれたのかい?』
「あははは、友達が誘ってくれたから。実は依織くんがゲストって、誘われるまで知らなかったんだよ〜。依織くん、トーク番組でないから意外だった」
『しがらみってやつだよ。ああいう番組は、どうにも苦手なのだけれどね』





 何年ぶりかに聞く依織くんの声。
 その声だけであたしは涙が出そうになって、それを悟られないようにテンションを高くしてしまう。
 馬鹿みたいにはしゃいで見せるのは、きっと今まで飲んでたお酒のせいだ。





「むぎちゃ〜ん!まだ〜!?」
「あ、ごめ〜ん、もう少し!」
 テーブルから男の子に大きな声で呼ばれ、あたしはかるく電話口を押さえて返事をした。
 すると依織くんがくすりと笑うのがわかった。
『忙しいみたいだね』
「忙しいっていうか、合コンだよ。楽しくってちょっと飲みすぎ〜。限界かも〜」
 あたしの諦めきれない想いが、あの時のように依織くんの重荷にならないよう、あたしはわざと合コンって言葉を使った。
 好きで来てる合コンじゃないけれど、依織くんを好きって気持ちを隠すために、ものすごく楽しんでる振りをした。
『……帰れないのかい?』
 一瞬の沈黙の後、依織くんは心配そうに言った。
 相変わらず、優しいんだね。
「みんないつもより盛り上がっちゃって。カラオケまで引っ張って行かれそうなんだよ〜。もう飲めないのに〜。帰るって言っても許してくれないんだ〜」
あたしがそう言うと、依織くんの溜息が聞こえた。
『限界?』
「限界」
『わかった。場所、教えて?』
「依織くん?」
 あたしは依織くんの言った事が理解出来なくて聞き返した。
 すると、向こうで軽く苦笑する気配がした。





『君が抜けられないなら、迎えに行ってあげる。場所教えて?』
「え、でも、悪いよ!」
『いいから。それとも、酔い潰されてお持ち帰りされたいのかい?』
「あははは、あたしを持ち帰ってくれる人いないから大丈夫!」
『……無防備なのも考えものだよ。むぎちゃん』
 ふっと依織くんの声のトーンが低くなる。
 あたしは反射的に、身体を竦めてしまった。
 電話の向こうで小さな溜息。






「い、依織くん?」
『教えなさい』
 静かだけれど有無を言わせない依織くんの声。
 あたしは、それに逆らうことなんて出来なくて、躊躇いながらお店の名前と場所を説明した。
 依織くんは30分くらいで到着すること、そしてこれ以上お酒を飲まないように念押しすると、すぐに電話を切ってしまった。
 あたしは、ただ呆然と空しい機械音を響かせる携帯を見つめた。







 依織くんが来る?







 まさか………。














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