依織くんはお店の前に停めてた車の助手席に、あたしをそっと降ろしてくれた。





 それから依織くんは、車の外であたしの友達からバッグとか上着を受け取りながら、酔ったあたしを心配してついてきてくれた男の子とも少し何かを話していた。
 車の中の空調はとても心地よくて、あたしは外の様子をぼんやり見ながらシートに身を落ち着かせて目を閉じた。





 依織くんのコロンの香りが仄かに車の中に残っていて、あの頃を思い出させてくれる。
 あの頃は、こんな風に車に乗せてもらって、色々依織くんに連れて行ってもらった。
 二人だけで海に行ったり、日用品を買うために車を出してもらったり。
 あたしがお願いすれば、優しい依織くんはいつでも車に乗せてくれた。
 





 依織くんは昔と変わらなかった。





 あたしの友達と話している表情だって、柔らかな優しい笑みで。
 依織くんはいつだって誰にだって優しい。





 優しくて、あったかくて………。
 だからよけいに切なくなる。





 こんなに想っているのはあたしだけなんだって、思い知らされるから。





 やがて、依織くんがドアを開けて乗り込む気配がした。
 でもあたしは目を閉じたまま……。





 目を開けてしまったら、依織くんがあたしの側にいてくれる、この甘く切ない夢が消えてしまいそうで……。







「気分は?大丈夫?」
 目を閉じたまま動かないあたしを、気分のせいだと思ったみたいで、依織くんが心配そうに訊ねてきた。
「大丈夫だよ……」
 あたしはやっぱり瞼をあげないで答える。
 ちょっとふわふわするけど、気持ち悪くはない。





「車、大丈夫かい?少し酔いを醒ます?」
 目を閉じてても、依織くんの視線を感じる。
 依織くんがあたしを見つめて、あたしを気遣ってくれる。
 あたしだけを……。





 それが今だけでも、とてもうれしい。
 




「そ、だね…。ちょっと風に当たりたい、かな?」
 本当は別に車に乗ってても平気なんだけど、久しぶりに会えた依織くんと離れたくなくて、あたしは思いつくままに我儘を言ってみた。
 すると、依織くんは軽く笑ったようだった。





「了解、お姫様」
 ああ、本当に懐かしい。
 依織くんはよくあたしのことを、「お姫様」って呼んでくれてた。
 あたしだって女の子だから、依織くんみたいな素敵な人にそう呼ばれて、とってもうれしかった。
 そして恥ずかしくて、どうしようもなかったっけ。
「少し、我慢してて」
 依織くんの温もりが近づく。
 あたしの体を覆うようにして手を伸ばした依織くんが、シートに身を埋めたままのあたしにシートベルトをしてくれた。






 目を閉じててよかった。
 目を開けてたら、きっとあたしの心臓は限界を越えただろうから。
 依織くんの髪があたしの頬に触れるほど近づいた体。
 ほんの少し動けば、依織くんの肌の温もりに触れられる距離。
 




 でも心の距離は遠すぎて……。
 あたしは少しも動けない。
 



 
 依織くんの運転は丁寧だ。
 車の中で、あたしも依織くんも口を閉ざしたまま。
 でも居心地の悪い沈黙じゃなかった。
 依織くんの優しい気配に包まれているみたいで、あったかくって心地いい。





 あたしは依織くんに気付かれないように、薄く目を開けて、まっすぐ前を見て車を運転する端正な横顔を盗み見た。
 




 やっぱり素敵だな……。
 




 昔も今も、あたしは依織くんが好き……。





 胸に込み上げてくる熱くて切ない想いを、あたしは唇を噛み締めて堪えた。 








 +++









 ナビシートで瞼を下ろしたまま、浅くゆっくりとした呼吸を繰り返す彼女に、俺は運転しながらちらりと目をむけた。
 アルコールのせいで、白い肌が仄かな桜色に染まっている。





 あの頃より、彼女は綺麗になった。
 品のいいメイクは、もう俺のアドバイスが必要ないくらい彼女に似合っているものだった。
 




 店に入った瞬間、すぐに分かった。
 彼女だと。





 彼女は昔と同じように人気者で、一際楽しげなグループの中心にいた。
 俺が止めたアルコールを流し込む彼女は、とても楽しそうで……。
 まわりの男達も、そんな彼女を眩しそうに見つめていた。





 渡せない。
 




 俺の心に沸き起こった鮮烈な衝動。
 




 だからこそ俺は、ことさら派手にその場へ登場してやった。





 自分が人からどう見られているか分かっている。
 自分を演出する方法も知っている。





 彼女の持つ、俺の記憶を鮮やかに蘇らせる為、俺は自分を作り上げた。





 彼女を誘惑する為に……。
 





 俺が体勢を崩した彼女を支えた時、刺すような強い視線を感じた。
 彼女の正面に座っていた男二人からのものだった。






 間違いようの無い、はっきりとした敵意。
 酔っているせいか、彼女にしては珍しく甘えるような仕草で俺の服を掴んだ時、彼らの視線の強さが一層増した。
 その原因である彼女は相変わらず鈍いようで、男達が向けてくる感情に一切気がついた様子はなかった。
 ただ俺を一心に見つめていた。
 過ぎたアルコールで、潤んだ瞳で。
 俺を上目遣いで見上げる彼女は、艶やかな色気を纏っていた。
 




 離れている間に、とても綺麗になった。
 彼女は俺がいなくても、自分で輝き続けている。





 体勢を崩した彼女を抱き上げたのは、彼女を心配したのと同時に、まわりと何よりも彼女自身へ、俺の存在を印象付ける為でもあった。
 男達へは牽制を。女の子達には噂の種を。
 そして彼女には、昔の記憶を思い出させる為に。
 俺の腕の中で、彼女は真っ赤になって小さくなる。
 それがまだ美術教師だったころに、同じように抱き上げた時の反応そのままで、俺は何故か安堵した。
 





 変わらない彼女の面影に、ホッとする。
  





 彼女の心は、変わらないのだろうか……。





 それとも……。





 俺の腕の中で、恥ずかしさに顔を隠してしまった彼女を見下ろしながら、俺は自分の想いを持て余し戸惑っていた。





 彼女が誰よりも愛しい。
 久しぶりに腕に感じる彼女の重みが、心に熱い火を灯す。





 しかし……。
 





 俺は、ナビシートの彼女から視線を外し、まっすぐに伸びる道路を見つめた。





 彼女を傷つけた俺は、今の彼女に何を言ったらいいのだろうか?
 今更、彼女の心を乱すようなことを言えるわけが無い……。





 これ以上、俺は彼女を傷つけることは出来ない。





 それでも俺は彼女が欲しい。





 むぎを目の前にして、その欲望は一層強くなるばかりだ。





 けれど、彼女を傷つけたくない。





 俺は苛立ちを紛らわすように、アクセルを踏み込んだ。













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