「むぎちゃん?」
彼女はほろ酔いの少し心許ない足取りで、ふらふらと海へと近づいていく。
俺が呼ぶと、彼女は大丈夫と言わんばかりに軽く手を上げた。
車を降りてから、彼女は冷たい海風に長い髪をなびかせながら、ゆっくりと俺の前を歩いていた。
アルコールで火照った体の熱を冷ます為か、彼女はあまり物も言わずにただ歩を進める。
穏やかな波の音に混じって、彼女の心地よいヒールの音が俺の耳を楽しませてくれていた。
ぴんと伸びた背筋、高めのヒールが似合う華奢な後姿。
柔らかな生地のスカートが、彼女の歩調に合わせて蝶のように揺れる。
俺は彼女の後姿を見つめながら、細いその体を抱きしめたい衝動に耐えていた。
叶うなら、この手の中にもう一度、彼女の温もりを感じたい。
でもそれはもう出来ないのだけれど。
彼女は、昔と変わらないまっすぐな瞳で俺を見て笑った。
その笑顔が、少しだけ複雑なものだったのは、俺との過去を思えば当たり前のことなのかもしれない
それを差し引いて考えれば、彼女は昔同居人だった時と同じような笑顔を俺に向けた。
いっそ、逢いたくない、顔も見たくないと詰られた方がよかったのかもしれない。
憎しみでも恨みでも、彼女が強い感情を今でも俺に対して持ってくれている証だから。
しかし……。
大人びた彼女は、俺がはっと息を飲むほどの笑顔を浮かべたのだ。
それは回りの男達にも見せる普通の笑顔……。
彼女は変わらなかった。
俺と付き合う前の笑顔に戻っていた。
俺はすでに過去となり、彼女は心の整理をつけてしまったのか?
これほど忘れられないのは俺だけなのか?
臆病な俺は、彼女に対して当たり障りのない近況くらいしか尋ねられなかった。
彼女の心を知るのが恐ろしかった。
俺のたわいない質問に、彼女は酔っている所為か、ぽつりぽつりと答えてくれる。
俺に背中を向けたまま……。
やっと逢えた彼女の顔をもっと見つめていたいのに、俺はそれさえも口にすることが出来なかった。
俺は、彼女に他の男達へ向けるものと、同じ視線で見つめられることを恐れている。
俺を一心に求めてくれた彼女を、「変わらない気持ちはない」と振り切ったのは俺なのに……。
今更、彼女に「変わらない気持ち」を求めている。
誰よりも彼女の心を信じなかった俺が……。
『変わらない気持ちはあるよ!あたしはずっと依織くんが好き!』
彼女の必死の言葉も耳に入れず、一方的に別れを選ばせた俺が、今更なにを期待している?
愛に臆病な俺は、自分からなにも言えやしない。
彼女に誘惑の手を伸ばしても、あいかわらず鈍い彼女はするりと交わしてしまう。
どうしたらいいのだろう?
俺はどうすれば、彼女の心を取り戻せるのか。
出来るならば、あの日に返ってすべてをやり直したい。
そして大人になっていく彼女を、側で見守っていたかった。
愛してる……。
家も名前もすべて失った日に失くした感情が、俺の中で今鮮やかに蘇る。
彼女と俺との間には、俺が雪音に対してすべての感情を無くしてしまった月日より長い時間が横たわっている。
どうして俺は、あの日、彼女の手を振り払ってしまったのだろか……。
今、思う。
雪音との熱く激しく、悲惨な結末を迎えた恋も、すべて彼女とめぐり合う為だったのではないかと。
だからこそ、自ら断ち切ったはずの彼女との恋が、今なお鮮やかに俺の心を占めているのだろうと。
何故、分からなかったのか。
どうしてあの時、俺に向けられた彼女のまっすぐな想いを信じなかったのか……。
たったひとつの、深い後悔。
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